FOUNDER創設者 織本匠

創設者プロフィール

氏名
織本匠(おりもと たくみ)
生涯
1918年 – 2001年
生まれ
山口県
学歴
東京大学卒業
経歴
鹿島建設入社を経て織本匠構造設計研究所を設立

「事務所設立の経緯」

織本匠が構造設計事務所を立ち上げたのは、古くから親しくしていた芦原義信氏(旧芦原建築設計研究所 代表)が昭和30年10月に中央公論本社ビルの設計を依頼され、その構造を担当することになった事が始まり。
二人ともその時は別に本業を持っていたため、夜だけしか仕事が出来ず、仕事場(清水建設の現場小屋を借用)に泊まり込む。
芦原氏はこの時既に独立を決意されており、織本匠も協力事務所として行を共にする様要請された。

当時は経験も浅く技術的にも未熟(実務歴8年)だったため、最初は躊躇していたが、仕事をしているうちにだんだん自信みたいなものが出てきて、この際思い切ってやらねば悔いを一生に残す様な気になり、独立を決意し翌31年の春に会社(鹿島建設)を退社。
この仕事の途中で、2代目社長の山本氏が加わり、そして同年10月ビルの竣工をまって1956年10月10日、中央公論ビル内に正式に会社を設立した。

中央公論本社ビル
左:山本和夫 右:織本匠

設立当時は中央公論ビルの内部は間口3m、奥行きが10m程の空間に芦原義信建築設計研究所と織本匠構造設計研究所が入っていた。
その後、両事務所共人数を増やし、隣のたばこ屋の2階を分室として事務所を拡張する。

その後、犬塚恵三氏の設備設計事務所も参加して仕事をするようになった。
中央公論ビルには2,3年居たが、1959年に四谷荒木町(石原ビル)、1961年に信濃町、1963年に青山の入来町(現在の北青山)の入来ビルを経て1967年にもっとも長く滞在した渋谷桜ヶ丘ビルへ移っていった。
渋谷桜丘ビルでは、いわゆる「あおい組」というかたち(意匠設計=芦原義信建築設計研究所、構造設計=織本匠構造設計研究所、設備設計=建築設備設計研究所(犬塚恵三))で同じビル内に事務所を構えて設計をおこなうようになる。
その後、万博のような大きな仕事も増え、人数も増え、1971年に大阪支所の開設、1978年に九州支所を開設、2011年に台湾支店を開設していった。

なお、遡ること 1964 年に武蔵野美術大学に産業デザイン学科建築デザイン専攻が設置され、芦原義信氏が教授に就任、1965 年に建築学科を開設、1970 年に織本匠が教授に就任し、それ以降は設計の実務からは離れ教育に力をいれる事になる。